映画「秋の理由」/コメント
全編に流れるトーンの落ち着いた暗さがきいています。心的な「秋の風景」が「喩」の働きをしているように思います。その意味からすれば、ここでは「春」は未生、すでになにごとかが含まれている。幻想に違いないでしょうが、「明るさ」が暗示されます。
様々のしがらみの中で、今を生きているのはみなおなじですから、よくわかります。画面を見つめているうちに、いつの間にか、「ここに展開されている切羽詰まったことがらを共有して、活路を模索してみてほしい」と、スクリーンから聞こえてくるような思いの中で、エンディングを迎えたのでした。
浮海啓(詩人)
やっと、福間健二監督作品『秋の理由』を観ました。
ジョイスにおけるダブリン。オースターのブルックリン。そして、福間健二の国立市。 場所が詩になり、映画になる。ひかりと影。意味と象徴。ことばが物の影になり、ひかりがこの人の世の絶望と希望を照らす。ぼくたちは、こうして福間健二の詩と映画の世界のなかに迷い込む。
『急にたどりついてしまう』、『わたしたちの夏』、『あるいは佐々木ユキ』、そして『秋の理由』と、4作の国立を舞台にした映画のなかで、ぼくたちは、映画がひかりと影でできている詩であり、物語にふちどられた雲であり、落葉でもあることを知らされる。
21世紀の世界の秋。なかなか人類は辛い局面にさしかかっている。それでもぼくたちは、ポルトガルの料理を食べ、ワインを飲むことができる。そこにしかぼくたちの希望はない、そんな思いを抱きながら、ぼくは十月の最後の夜の国立大学通りを歩いて帰っていった。
小山伸二(辻調理師専門学校 メディアプロデューサー・詩人)
秋に理由は必要なのだろうか。ただ、秋はやってくる。
そこに理由を求めてしまったら、惑うしかないじゃないですか。
男たちは、春の迷いを忘れず、忘れることができずに、
夏をすり抜けて、秋の惑いに溺れる。
福間さんは、もう一度、処女作を撮ろうとしているのかな。
その純心がどうにもうらやましく、何だかやるせない気持ちになりました。
七里圭(映画監督)
苦境の中にあってもあきらめずに悪あがきする二人の男を支えているのは友情だ。だから、『秋の理由』は青春映画なのだということができる。還暦のおっさん二人が主人公であっても、この映画は真っ当な青春映画なのだ。
だが、青春は面倒くさい。特に悪あがきと友情の男の青春は女にとっては大迷惑だ。男の青春は身近なところにいる女をふりまわし疲れさせる。そのくせ、男の青春は夢からぬけ出てきたような幻の女との出会いを求めたりする。
そんな男の青春の馬鹿さかげんを村岡も宮本もよく知っているだろう。たぶん、女に対して内心では、すみません、と謝っているのではないか。しかし、山頭火ではないが、どうしようもないわたしが歩いている。そして、死ぬまでそうやって歩き続けるしかないのだ。還暦のおっさんの青春は無様だ。けれども、なぜだか『秋の理由』は心にしみる。
井川耕一郎(映画監督・脚本家)
140文字で詩を書かせたら右に出る者がない作家・福間健二が撮り続けている映画作品は140文字程度では要約できない。端的に云って “ゆらいでいること”を信条のひとつとしているから。そういう世界には溢れがあり、気づけばフレームの外側に連れて行かれたりする。
『秋の理由』における人やモノの輪郭の鮮明さには驚かされるばかりだが、実はさまざまな人物の影が折り重なり、それぞれの声にも別の誰かの言葉が乗せられていて、やはり中心は掴めない。この季節、この街並みの息吹が際立つのはまさにそのときだ。街の表情がうつくしい。ミクや小説家志望の青年に代表される存在としか名づけ得ない顔もあって、思わず「きみたちは美人だ」と呼びかけたくなる。
書き続けることは、変わり続けること。そんな意志を持っている詩人が切り取った現実の端っこには、空のような穴がある。それはある種の再生装置なのか。映画の中の奇妙な反響から、まだ少し抜け出せずにいる。
依田冬派(詩人)
むしょうに人恋しくなる季節のせいか、心にグッときた。声を失った初老の小説家とその友人の編集者、まわりの女たちをめぐる恋愛未満の物語。中高年の男たちが生き悩む姿が、こんなにリアルに描かれた映画を観たのは初めて。いまもっとも「青春」してるのは、彼らなんだと思う。女たちが一縷の希望をになうのは、福間映画ではいつものとおり。
金子遊 (映像作家・批評家)
昨日。試写で『秋の理由』(福間健二監督)。色と音、そして薫りのよい秋の映画だった。ひとつひとつのことばや顔がつややかに粒だっていて、舌ざわりもとてもよい。わたしはこの映画をきっと食べたのだと思う。
福間健二監督の映画は、せりふがすべて歌になっているミュージカルのように、せりふがみんな詩になっている。あるいは、俳優のからだと声を通じて、せりふが詩になってゆく過程を記録している。わたしたちは、座席に身をあずけながら、発語が詩になる時間をともにしている。
萩野亮(映画批評)
とても力強い作品で、圧倒された。守、正夫、ミク、美咲の4人の登場人物が、若い人は若い人なり、年齢を重ねた人はそれなりに、その年輪を確かに体に刻みながらそこに存在し、四つ巴になってもがいている。格闘している。その身体が「リアリティがある」などという紋切型の言葉では何かが抜け落ちてしまう、優しさと祈りに満ちていて、とてもいいと思った。今までの福間作品で最も地に足が着いていて、今後の新たな展開を感じさせる作品。
夏目深雪(批評家・編集者)
『秋の理由』試写で拝見。福間さんの映画にはいつも、映画を撮る喜びと、一作ごとに若返っていく感じを受けていたが、『急たど』以来の男主役の本作で初めて、〈男の苦渋〉を描いているのが新鮮だった。それも〈軽やかな苦渋〉なのが福間さんらしいと思った。
いつも通りなのは女優の撮り方。福間さんは本当に、女優を撮るのが抜群にうまい。女優の地に合わせてそれぞれの魅力を引き出すワザは真似できない。
でも、寺島しのぶと佐野和宏のシーンでは、寺島を「男優」、佐野を「女優」として撮っていたように思えてならなかった……。
常本琢招(映画監督)
「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない」という漱石「道草」の主人公の言葉が記憶の底から浮上する。福間健二の映画『秋の理由』の美しい映像の底には幾つもの地獄が横たわっている。泣き喚いても仕方がない。沈黙の深さに呼応する映像と言葉に曝されるなかで、観客もまた自らの「黒い芯」を確認するだろう。それは現在の悲惨を超えることにはならないが、「粘りつく暗示」を「洗いおとして」、それぞれの「秋の理由」に覚醒させる。
水島英己(詩人)
福間健二監督『秋の理由』試写。カーテンが無遠慮に、勢いよく開かれて、不意に見せられる秋の空。しかし、それはわたしの空でもある。そのとき、光の方へ、水面から顔を出すように、空気をいっぱいに吸って、そうやってまた生きていく。これから先、この映画の空を思い出すことがあるのだろう。
山崎講平(古書店主)
福間健二監督『秋の理由』試写。すごい映画……。幽霊、というよりゾンビのような佐野和宏と、彼を取り巻く実体を欠いた影のような人々が透きとおった秋の彩りと光の中でよるべなく漂っている。ギリギリまで彫琢された木彫のような画面と台詞。今年の邦画の中でも最もみずみずしい1本。
『秋の理由』は、ある意味で最も現代的なサイレント映画といえるが、音の世界も驚くほどゆたか。まったく余韻から醒めないのだが、これは劇場でもう一度観たい。
渡邉大輔(批評家)
TCC試写室、福間健二監督『秋の理由』。第5作ともなれば成熟を感じねばならぬのだろうが、画面から滲み出る瑞々しさは何なのだろうか。それは福間健二が求めるものが成熟ではなく常に現在進行形の何かなのだろう。彼が映画を撮り続ける理由もそこにあるのかも知れない。次のステージを感じさせる逸品。
ダーティ工藤(映画監督・緊縛師)